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あたらしい自分はつくれないのか
2012.11.12 Monday
「私はまだ子供だし、結婚がどういうものかなんて知らない」と笠原メイは言った。「だからあなたの奥さんがどういう気持ちで他の男の人とつきあって、あなたを捨てて家を出て行ったかなんてもちろんわからない。でも今の話を聞いた限りではね、あなたはそもそもの最初からちょっと間違った考えかたをしていたような気がするの。ねえ、ねじまき鳥さん、あなたが今言ったようなことはだれにもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。自分ではうまくやれた、別の自分になれたと思っていても、そのうわべの下にはもとのあなたがちゃんといるし、何かあればそれが『こんにちは』って顔を出すのよ。あなたにはそれがわかっていないんじゃない。あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかよそで作られたものなの。ねえ、ねじまき鳥さん、そんなことは私にだってわかるのよ。どうして大人のあなたにそれがわからないのかしら?それがわからないというのは、たしかに大きな問題だと思うな。だからきっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。私の言っていることわかる?」
ねじまき鳥クロニクル-第2部- 旧き良き時代って、どう?
2012.11.11 Sunday
コンプレックスが偏見と相性がいいと書いてから、思いつくところがあったので書いておこうと思う。
数ヶ月前に読んだ益田ミリの「言えないコトバ」という本に「旧き良き時代」という章(というかコトバ)があって、何か腑に落ちるものがあった。内容はまったく忘れてしまったのだけれど、その単語そのものから感じる何かが僕にもあったわけだ。 僕の父は音楽好きを標榜している。生徒をとって音楽を教えていたし、ギターも弾いていた。(病気でいまはそれもかなわないが) ただ、好きすぎるゆえに自分なりのこだわりをこつこつと築いたのか、自分の思う「音楽」から逸脱したものに対しては、とても不寛容。 僕が何度も何度も聴いて、これはほんとにいいCDだと思ったものも、くだらないって一蹴した。中学とか高校の頃には面白くないな、なんて反発心を抱いたものだ。 僕はだから、父に反抗した。旧い音楽を聴いても良いなーって言うし、新しい音楽を聴いてもいいなーって同じように言った。(実際時代なんて関係なく良いと思うものは良い)僕はその態度で、父の不寛容を浮き彫りにさせ、なんとか新しい音楽もちゃんと評価してほしいものだと、思った。嫌味なやり方だとつくづく思うけれども。 しかし父の構築した音楽観は固かった。僕は折れた。まぁそういう人もいるよな、と片付けた。ただ、子どもながらに僕は誓った。父のようにはなるまい。歳をとっても新しい音楽もちゃんと聴ける大人になってやる、と。 働くようになってから、僕の生活に新しい音楽が全く入ってこない時代がやってきた。昔の自分を裏切るようでしのびなかったけれど、歳をとるということがそのまま大人になるということなら、僕もこのまま手持ちの音楽で父のような大人になるのかもしれないと思うことがあった。そこに恐怖はまったくなかった。 だけど、通勤時間にラジヲを聞くようになり、新しい音楽が自然と入ってくるようになると、ちゃんとその音楽を好きになった。僕はまた、CDを買うようになり、昔の自分を裏切らずに済んだことに安堵を覚えている。 ただ前よりも父の気持ちが幾分かわかるようになった。ある可能性のひとつの未来が僕の父の姿だと思えるようになった。それは「旧き良き時代」を懐かしむ大人の姿なんだと思った。 父の「昔の音楽がいちばんだ」という偏見は、もしかしたら時代についていけないがゆえのコンプレックスの一表現じゃないかと考えられる。テレビでもよく耳にする「いまの若者は・・・」で始まる苦言の枕詞は、(あたりまえだけれど)常に大人側からの発言だ。(たまに若者も使うが、それは「自分は大人ですよ」というアナウンスではないだろうか)例を挙げれば逆もある。子どもが「早く大人になりたい」と口にするのは、若さに対するコンプレックスと考えてみる。その裏には大人に対する偏見がある。(偏見の内訳は「お金が自由に使える」「宿題がない」「髪を染めても怒られない」とかだろうか) たまにテレビで耳にする上の枕詞にやりきれない思いを感じるのは、それを無自覚に使っている大人の抜けていない無邪気なこどもっぽさに、だろうか。 自分が何かを不満に思ったとき、それが由来するコンプレックスについて考え、逆の立場にまで想像の及ぶ人になれればと、今そう思う。ややこしいし、時間はかかるけれどもね。 マウンテン マウンテン/cero 「先月」でた「新しい」アルバムいいよ!(あなたは試されている・・・!) 悪の教典
2012.11.11 Sunday
今日悪の教典を見てきた。小説のほうは読んでいた。内容は知っていたので、展開に汗を握るということはなかったけど、えげつないシーンの連続に直視するのに耐えないという意味で嫌な汗を握っていたかもしれない。拷問のシーンは、見えないが故の怖さが前面にでていた。
伊藤英明がごきげんにバン、バン、バン、と生徒を血祭りにあげていく(それが文化祭準備の日という浮かれた祭り気分が皮肉すぎる)。 その「バン」という銃声に悲鳴を飲み込むのに結構苦労した。こっちの心臓が縮みあがったよ。生徒の恐怖の演技もよかったし、観終わったあとにえみさんと話したけれど、伊藤英明の他に蓮実役は誰が適任か?と二人して考えて、でてこなかった。さわやかで、タフで、生徒思いの教師をやれる人。 織田裕二かな、とも思ったけど、CMスポンサーを考えて、無しだろうと思う。(ヨコハマタイヤが滑らずにきちんと止まるのは、彼に安全であり一線を越えない、というイメージがあるからではないだろうか。世界陸上の司会だってやるんだ。さわやかでタフで、熱もある) すごい映画を観てしまったなぁという印象があるけれど、感想を言うのに喉元まででてくる「いい映画だったねえ」を果たして言ってしまっていいのかどうか。 「いい」というのも広い意味のある言葉だなあなんて思ったりしました。 コンプレックスから見た世界
2012.11.05 Monday
最近太ってしまった。毎年夏にはバテてしまって食欲がかなり減退するのだけれども、今年はまったくなかった。ただご飯がうまかった。
まず兆候は、ズボンがキツイのでは?という体感から。かがむとき、ふとももがぱつんぱつんになっている。・・・まさか。 で、案の定体重をはかってみたところ、60kgになっていた。身長が約170cmだから、いちおう適正体重なんだけど、いままでなかったことだからショックが大きい。 そうして夜な夜な脚やせのネット記事なんぞを読んでは効果があるのかないのかわからない怪しい体操を取り入れたりしている。 いままでが痩せていたほうだったから、そのときは「太りたいなー」なんて軽々しく口にしていた自分の口が呪わしい。手持ちの洋服がことごとく似合わなくなっていくのは、とても悲しいことだと体験した。 街を歩くと、あの人の足は痩せてるなぁーとか、スタイルがすごくいいなぁーとか、いままで気にしていなかった部分が目に付くようになる。そんな風に人を見たりしたことはなかったのにね。コンプレックスを抱えると、痩せている人、太っている人で知らず知らずのうちに人を分けている自分がいる。コンプレックスと偏見は相性がいいのかもしれない。 きっと、かつらを被っている人もまた、あいつはフサフサ、あいつは禿げって分けているんだろうな。 たまにまったく偏見をもたない意見ばかりを言う人がいるが、あんまり会話が楽しいと感じることはない。一般論は、ときに人をいらいらさせるということを心得ていない人か、自分に心を開いてくれない人なんだと思っている。そういう人はたいてい容姿端麗。ひとは美しいまま気の利いた意見を言えないのか。 これは、父親のひとつの偏見。 「黒い軽自動車に乗っているやつは、頭が悪いか、頭の悪そうな趣味をもっている」すげえなと思う。バッサリ切ったな。 で、走る車を見ると、うーん・・・僕は父に賛成します。 ドラッグと似ているのは化粧だけじゃない
2012.11.04 Sunday
「かつらの寿命ってね、実はけっこう短いからよ。あなたは知らないかもしれないけど、だいたいあれ二、三年しかもたないのよ。最近のかつらはものすごく精巧に出来ているからね、それだけ消耗も激しいの。二年か長くても三年たったら、だいたいは買い替えなくちゃならないの。ぴったり地肌に密着しているから、かつらの下にある自前の毛が前より薄くなればなったで、もっときちんとフィットするものに替えなくちゃならないしね。それでね、まあとにかく、もしあなたがかつらを使っていて、二年経ってそれが使えなくなったとしたら、あなたはこんな風に思うかしら?うん、このかつらは消耗した。もう使えない。でも新しく買い替えるとまたお金もかかるし、だから僕は明日からかつらなしで会社に行こうって。そんな風に思えるかしら?」 好奇心と勇気は似ているけど・・・
2012.11.04 Sunday
先の記事に触れ、確かに好奇心と勇気が似ているところはあると思う。僕も好奇心が多いほうで、人にそう見られていないけれどもかなりミーハーな性質だ。
ミーハーで、加えて形から入るタイプでもあるので、ゴルフクラブもあればベースもあるし、ボウリングでマイボウルまで作ったが、どれもこれも続いていない。今年はジョギングやるかーと思い決めて買ったシューズも靴箱の中で眠っている。ジャージまでそろえて・・・でも、部屋着に事欠かないことになった。それでもまぁいっかと思っている。 僕はいつも好奇心が勝って勇気である投資金にはあまり頓着していない。自分で自分のことを嫌いになるほど、たぶん自分に期待もしていないのだろう。それが続きすぎると、まぁこんなもんだろ、となる。まぁこんなもんだろ、と思っているから、1週間も続けば『よくがんばったなあ』ってなる。自分のハードルの低さにときどきびっくりする。学生時代はもっと自分に厳しかったよなあなんて思ったりして。 自分に期待値が高かった学生時代は、しょっちゅう自己嫌悪というものに陥ったりした。自己嫌悪のいいところは、自分を否定して、それを糧に成長があると信じられるところにあると思う。自己嫌悪の連鎖が自分を高めてくれると信じればこそ、自己嫌悪をしながらも、それは自己愛に支えられていた。 ただ、どこかで自分は自己否定がそのまま成長になるなんて信じられなくなったんだろう。それは果たして成長だったのかどうか、僕はまだわからずにいるけれども。 好奇心と勇気は似ている
2012.11.02 Friday
「大丈夫よ。学校に行きたくないから無理に足を引きずってるのよ。親の手前そういうフリしてるだけ。でもいつのまにかそれがクセになっちゃったの。誰も見てないときでも、ひとりっきりで部屋にいるときでも足の悪いふりをするようにしているの。私、完全主義者なの。他人をあざむくには、まず自分をあざむけっていうじゃない。ねえ、ネジマキドリさん、あなた勇気はあるほう?」 目的を
2012.11.02 Friday
もっと自分のためだけにブログを書いてもいいんじゃないかと思った。誰かが見ているかもしれないというのはもちろんあるだろうけれども、その見ている誰かのために日記を書くわけじゃないし、そういうふうには書けない。書かれるべきではないだろう。
自分が振り返って読み返したとき、それが読むに耐えるものかどうかという面で、開かれているところで書くという意味はあると思う。体面を保つためにも、逸れ過ぎないようにするためにも。この場はもっと活用できるだろう。
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