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「好き」への道のり


 まずは「気になる」ことから始まる。
 気になって、「いいなぁ」とつぶやくうちに心が暖かくなり、暖かさで熱を帯びた心は「熱心」と誰かに呼ばれる。熱が冷めなければ次第に火が宿され、気づくと火に包まれて「熱中」の人となる。これがしばらく続くと、やがて火中の熱さにも気付かなくなり、いつのまにか火ではなく夢の中に入り込んで、もう「夢中」である。
 問題はこのあと。
 夢は、自分の見ているものだからまだいいとしても、「夢中」が高じてくると、ついには「虜」となり、囚われの身となって、しだいに「自分」が失われてゆく。
 世の慣例では、「自分を見失う」のはよくないことのひとつに数えられているが、そう言いながらも、人は常に「我を忘れること」に出会いたいとどこかで願っている。何かに夢中になりたいと探し歩き、それでもなかなか出会えないので、仕方なく夜になると大酒を飲んで我を忘れたりする。
 どうして人は、そんなにも「我を忘れたい」のか?
 夜毎、大酒を飲みながら考えてみたところ、どうやらこの問いは「人はなぜ恋をするのか」と同義であると酔いの中で思いついた。それなら答えは簡単である。
 「そんなことは知らない」
 しいて言うなら「本能」ということになるかもしれないが、「本能だから」という簡潔な答えは、略さず正確に言うと、
 「まぁ、よく分からないけれど、とにかく仕方ないよ、本能なんだから」
 となる。
 とにかく理屈ではない。とにかく好きなものは好き。とにかく気になって、とにかく熱中して、とにかく夢中になって、とにかく虜になってしまった−というのが恋である。
 「とにかく」である。
 そして、人は「とにかく」を何より信じている。理屈を超えて信じることが、つまり「我を忘れる」であり、「我」とはすなわち「理屈」のことに他ならない。とかく理屈ばかりを掲げてそれに縛られていると、縛りをほどいて「我」の核心にある「本能」に立ち返りたくなる−そう思いませんか?
 「それだけかね、君の理屈は」
 医師はそう言うと、私のカルテをしたためて、最後に「病名」を簡潔に書き記した。
 <活字中毒>

 『という、はなし』(とにかく)/吉田篤弘(文) フジモトマサル(絵)
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