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旧き良き時代って、どう?
  コンプレックスが偏見と相性がいいと書いてから、思いつくところがあったので書いておこうと思う。
 数ヶ月前に読んだ益田ミリの「言えないコトバ」という本に「旧き良き時代」という章(というかコトバ)があって、何か腑に落ちるものがあった。内容はまったく忘れてしまったのだけれど、その単語そのものから感じる何かが僕にもあったわけだ。
 僕の父は音楽好きを標榜している。生徒をとって音楽を教えていたし、ギターも弾いていた。(病気でいまはそれもかなわないが)
 ただ、好きすぎるゆえに自分なりのこだわりをこつこつと築いたのか、自分の思う「音楽」から逸脱したものに対しては、とても不寛容。
 僕が何度も何度も聴いて、これはほんとにいいCDだと思ったものも、くだらないって一蹴した。中学とか高校の頃には面白くないな、なんて反発心を抱いたものだ。
 僕はだから、父に反抗した。旧い音楽を聴いても良いなーって言うし、新しい音楽を聴いてもいいなーって同じように言った。(実際時代なんて関係なく良いと思うものは良い)僕はその態度で、父の不寛容を浮き彫りにさせ、なんとか新しい音楽もちゃんと評価してほしいものだと、思った。嫌味なやり方だとつくづく思うけれども。
 しかし父の構築した音楽観は固かった。僕は折れた。まぁそういう人もいるよな、と片付けた。ただ、子どもながらに僕は誓った。父のようにはなるまい。歳をとっても新しい音楽もちゃんと聴ける大人になってやる、と。
 働くようになってから、僕の生活に新しい音楽が全く入ってこない時代がやってきた。昔の自分を裏切るようでしのびなかったけれど、歳をとるということがそのまま大人になるということなら、僕もこのまま手持ちの音楽で父のような大人になるのかもしれないと思うことがあった。そこに恐怖はまったくなかった。
 だけど、通勤時間にラジヲを聞くようになり、新しい音楽が自然と入ってくるようになると、ちゃんとその音楽を好きになった。僕はまた、CDを買うようになり、昔の自分を裏切らずに済んだことに安堵を覚えている。
 ただ前よりも父の気持ちが幾分かわかるようになった。ある可能性のひとつの未来が僕の父の姿だと思えるようになった。それは「旧き良き時代」を懐かしむ大人の姿なんだと思った。
 父の「昔の音楽がいちばんだ」という偏見は、もしかしたら時代についていけないがゆえのコンプレックスの一表現じゃないかと考えられる。テレビでもよく耳にする「いまの若者は・・・」で始まる苦言の枕詞は、(あたりまえだけれど)常に大人側からの発言だ。(たまに若者も使うが、それは「自分は大人ですよ」というアナウンスではないだろうか)例を挙げれば逆もある。子どもが「早く大人になりたい」と口にするのは、若さに対するコンプレックスと考えてみる。その裏には大人に対する偏見がある。(偏見の内訳は「お金が自由に使える」「宿題がない」「髪を染めても怒られない」とかだろうか)
 たまにテレビで耳にする上の枕詞にやりきれない思いを感じるのは、それを無自覚に使っている大人の抜けていない無邪気なこどもっぽさに、だろうか。

 自分が何かを不満に思ったとき、それが由来するコンプレックスについて考え、逆の立場にまで想像の及ぶ人になれればと、今そう思う。ややこしいし、時間はかかるけれどもね。


マウンテン マウンテン/cero



「先月」でた「新しい」アルバムいいよ!(あなたは試されている・・・!)
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