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旧き良き時代って、どう?
  コンプレックスが偏見と相性がいいと書いてから、思いつくところがあったので書いておこうと思う。
 数ヶ月前に読んだ益田ミリの「言えないコトバ」という本に「旧き良き時代」という章(というかコトバ)があって、何か腑に落ちるものがあった。内容はまったく忘れてしまったのだけれど、その単語そのものから感じる何かが僕にもあったわけだ。
 僕の父は音楽好きを標榜している。生徒をとって音楽を教えていたし、ギターも弾いていた。(病気でいまはそれもかなわないが)
 ただ、好きすぎるゆえに自分なりのこだわりをこつこつと築いたのか、自分の思う「音楽」から逸脱したものに対しては、とても不寛容。
 僕が何度も何度も聴いて、これはほんとにいいCDだと思ったものも、くだらないって一蹴した。中学とか高校の頃には面白くないな、なんて反発心を抱いたものだ。
 僕はだから、父に反抗した。旧い音楽を聴いても良いなーって言うし、新しい音楽を聴いてもいいなーって同じように言った。(実際時代なんて関係なく良いと思うものは良い)僕はその態度で、父の不寛容を浮き彫りにさせ、なんとか新しい音楽もちゃんと評価してほしいものだと、思った。嫌味なやり方だとつくづく思うけれども。
 しかし父の構築した音楽観は固かった。僕は折れた。まぁそういう人もいるよな、と片付けた。ただ、子どもながらに僕は誓った。父のようにはなるまい。歳をとっても新しい音楽もちゃんと聴ける大人になってやる、と。
 働くようになってから、僕の生活に新しい音楽が全く入ってこない時代がやってきた。昔の自分を裏切るようでしのびなかったけれど、歳をとるということがそのまま大人になるということなら、僕もこのまま手持ちの音楽で父のような大人になるのかもしれないと思うことがあった。そこに恐怖はまったくなかった。
 だけど、通勤時間にラジヲを聞くようになり、新しい音楽が自然と入ってくるようになると、ちゃんとその音楽を好きになった。僕はまた、CDを買うようになり、昔の自分を裏切らずに済んだことに安堵を覚えている。
 ただ前よりも父の気持ちが幾分かわかるようになった。ある可能性のひとつの未来が僕の父の姿だと思えるようになった。それは「旧き良き時代」を懐かしむ大人の姿なんだと思った。
 父の「昔の音楽がいちばんだ」という偏見は、もしかしたら時代についていけないがゆえのコンプレックスの一表現じゃないかと考えられる。テレビでもよく耳にする「いまの若者は・・・」で始まる苦言の枕詞は、(あたりまえだけれど)常に大人側からの発言だ。(たまに若者も使うが、それは「自分は大人ですよ」というアナウンスではないだろうか)例を挙げれば逆もある。子どもが「早く大人になりたい」と口にするのは、若さに対するコンプレックスと考えてみる。その裏には大人に対する偏見がある。(偏見の内訳は「お金が自由に使える」「宿題がない」「髪を染めても怒られない」とかだろうか)
 たまにテレビで耳にする上の枕詞にやりきれない思いを感じるのは、それを無自覚に使っている大人の抜けていない無邪気なこどもっぽさに、だろうか。

 自分が何かを不満に思ったとき、それが由来するコンプレックスについて考え、逆の立場にまで想像の及ぶ人になれればと、今そう思う。ややこしいし、時間はかかるけれどもね。


マウンテン マウンテン/cero



「先月」でた「新しい」アルバムいいよ!(あなたは試されている・・・!)
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コンプレックスから見た世界
  最近太ってしまった。毎年夏にはバテてしまって食欲がかなり減退するのだけれども、今年はまったくなかった。ただご飯がうまかった。
 まず兆候は、ズボンがキツイのでは?という体感から。かがむとき、ふとももがぱつんぱつんになっている。・・・まさか。
で、案の定体重をはかってみたところ、60kgになっていた。身長が約170cmだから、いちおう適正体重なんだけど、いままでなかったことだからショックが大きい。
 そうして夜な夜な脚やせのネット記事なんぞを読んでは効果があるのかないのかわからない怪しい体操を取り入れたりしている。

 いままでが痩せていたほうだったから、そのときは「太りたいなー」なんて軽々しく口にしていた自分の口が呪わしい。手持ちの洋服がことごとく似合わなくなっていくのは、とても悲しいことだと体験した。

 街を歩くと、あの人の足は痩せてるなぁーとか、スタイルがすごくいいなぁーとか、いままで気にしていなかった部分が目に付くようになる。そんな風に人を見たりしたことはなかったのにね。コンプレックスを抱えると、痩せている人、太っている人で知らず知らずのうちに人を分けている自分がいる。コンプレックスと偏見は相性がいいのかもしれない。
 
 きっと、かつらを被っている人もまた、あいつはフサフサ、あいつは禿げって分けているんだろうな。
 
 たまにまったく偏見をもたない意見ばかりを言う人がいるが、あんまり会話が楽しいと感じることはない。一般論は、ときに人をいらいらさせるということを心得ていない人か、自分に心を開いてくれない人なんだと思っている。そういう人はたいてい容姿端麗。ひとは美しいまま気の利いた意見を言えないのか。

 これは、父親のひとつの偏見。
 「黒い軽自動車に乗っているやつは、頭が悪いか、頭の悪そうな趣味をもっている」すげえなと思う。バッサリ切ったな。
 で、走る車を見ると、うーん・・・僕は父に賛成します。

 
 
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好奇心と勇気は似ているけど・・・
  先の記事に触れ、確かに好奇心と勇気が似ているところはあると思う。僕も好奇心が多いほうで、人にそう見られていないけれどもかなりミーハーな性質だ。
 ミーハーで、加えて形から入るタイプでもあるので、ゴルフクラブもあればベースもあるし、ボウリングでマイボウルまで作ったが、どれもこれも続いていない。今年はジョギングやるかーと思い決めて買ったシューズも靴箱の中で眠っている。ジャージまでそろえて・・・でも、部屋着に事欠かないことになった。それでもまぁいっかと思っている。
 僕はいつも好奇心が勝って勇気である投資金にはあまり頓着していない。自分で自分のことを嫌いになるほど、たぶん自分に期待もしていないのだろう。それが続きすぎると、まぁこんなもんだろ、となる。まぁこんなもんだろ、と思っているから、1週間も続けば『よくがんばったなあ』ってなる。自分のハードルの低さにときどきびっくりする。学生時代はもっと自分に厳しかったよなあなんて思ったりして。
 自分に期待値が高かった学生時代は、しょっちゅう自己嫌悪というものに陥ったりした。自己嫌悪のいいところは、自分を否定して、それを糧に成長があると信じられるところにあると思う。自己嫌悪の連鎖が自分を高めてくれると信じればこそ、自己嫌悪をしながらも、それは自己愛に支えられていた。
 ただ、どこかで自分は自己否定がそのまま成長になるなんて信じられなくなったんだろう。それは果たして成長だったのかどうか、僕はまだわからずにいるけれども。
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目的を
 もっと自分のためだけにブログを書いてもいいんじゃないかと思った。誰かが見ているかもしれないというのはもちろんあるだろうけれども、その見ている誰かのために日記を書くわけじゃないし、そういうふうには書けない。書かれるべきではないだろう。
 自分が振り返って読み返したとき、それが読むに耐えるものかどうかという面で、開かれているところで書くという意味はあると思う。体面を保つためにも、逸れ過ぎないようにするためにも。この場はもっと活用できるだろう。


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繰り返されてきたこと、これからも。
 台風が来ている。台風のさなかにあって家にいて本を読んでいると『この10年、ぼくは嵐の夜にがたがた鳴る鎧戸の音を無視して本を読むスヌーピーであった』という言葉を思い出す。池澤夏樹の嵐の夜の読書という本のワンフレーズ。そこからたち現れる雰囲気、情景がただ好きというだけの話。

 家を出ないでのんびりと過ごす週末もなんだか久しぶり。物足りない気持ちはあるけれども嫌いじゃない。ゲームをして、本を読んで、変な時間に長風呂に入って、もうこんな時間かよって嘆いてさ。悲観することも、まあまた5日働けば休みじゃないかって思ったりすることも何度も繰り返されてきた。わかっていてもやめられないし、案外そういう決まった流れ・・・1週間の流れというよりももっと大きな人生の(といっては大仰かもしなれないけれども)が好きだったりする。雨が降ってはわくわくして、天気がよければ遊びに行きたがり、冬になったらさむいさむいっていっぱい言う。春になったらくしゃみしていて、夏になったら暑い暑いって言う。これまでも繰り返されてきて、これからも繰り返すんだろうな。僕だけの話じゃなくて、それはこれからのみんなの話でもあり、これまでの人の話でもあった。そう思うと、なんだか特別な感じがして好きなんだなあ。

 こういう話をすると決まって「おじいちゃんみたい」だとか「涅槃?」とか、反応はそんな感じです。歳にそぐわないのかもしれない。でも頭は想像をやめない。そして僕はますますそのおじいちゃん&涅槃の気持ちを強めていく。歳をとったとき、僕が見ている風景はどうなっているんだろうか。

 最近平野啓一郎の小説にはまっています。


渚にて幻/indigo la End

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悪いことがしたい。
 最後の更新が3月7日!?
 お久しぶりです、たじまです。いやはやご無沙汰しておりました。花粉症の自分は春ほど憂鬱になる季節もないのですが、今年のくしゃみは少なかった。
 毎年「あれ…周りの人がくしゃみをしているのに自分は何にもないぞ…もしかして…」と思った矢先に足元をすくわれるというオチがつくのですが、今年は無し。
 少し心残りなのが、周りの人の「今年は少ないね」という声。できれば「おほほほほ〜治ったのかも〜」とくしゃみで苦しむ人の前をスキップしたかったのに。イエー!あれ?君、もしかして花粉症!?うわーかわいそうに、つらいでしょ?大変でしょ?夜眠れないよね?お、つ、か、れ、さん☆ なんて調子で。
 時たま、人を困らせてみたいだなんて軽い気持ちが働くことないですか?僕はあります。

 小心者の僕がそんな大それたことはできるべくもないので、せいぜい頭の中で愉しむのが精一杯。夜のコンビニの前でウンコ座りしてみたいとか、満員電車の中で深く腰をかけて、足を組んでみたいだなんて思ったり。相当ワルいなこりゃ。
 そういう夢想が働くのは、やっぱり自分とはかけ離れているからなんだと思います。現実の僕は、髪の毛をツンツンさせている若者にびくびくし、ボウリングに行けば隣のレーンの人の声の大きさが気になりっぱなしで、イエーイとか言ってハイタッチしていると、こっちへ来やしないかとおどおどしてしまいます。

 で、そこでもまた頭のなかでいろいろシュミレートをするわけです。

シュミレート1:スマートな展開

イエーイ!パシンパシンパシン(ハイタッチの音) 隣のお兄さんもイエーイ!
そう言って両手をハイタッチの形のまま近づいてくる若者。
目だけで「気分じゃない」という信号を送る。
空気を察する若者。輪に戻る。
肩をすくめる自分。やれやれ。

シュミレート2:武闘派

イエーイ!パシンパシンパシン(ハイタッチの音) 隣のお兄さんもイエーイ!
そう言って両手をハイタッチの形のまま近づいてくる若者。
手を払いのける。
気分を害した若者。群れで向かってくる。
-3分後
何もなかったかのようにボウリングを続ける自分。
フロアに伏せって呻き声を漏らす若者。

 でも、と思うのです。一番イカしているのは何ていったってシュミレート3。
 そのハイタッチにハイタッチで応じることのできる人なんです。それがわかっているから、わかっていてできないから、こんな頭なんですきっと。せいぜい頭の中でだけ充実します。

ドーナツに死す/髭(HiGE)

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考えてるけど思いつかない。
 【私腹を肥やす】―公の地位や立場を利用して、自分の財産を殖やす。「職権を濫用して―・す」

 最近よくテレビにでてくるナァ、と思っていた野村監督。どうも監督を引退するとか。もうしたのか。
 しかしあの人の顔を見るたびに頭によぎる言葉がある。
 『私腹を肥やす』
 画に描いたような悪人面が逆に憎めない。ほんとはいい子なんです、だなんて擁護したくなる。余計なお世話である。
 時代劇のセットの中にポンと置いて、お主も悪よのう、と言ったらどんなに似合うことか。相方には小沢一郎なんてどうだろう。
 夜、屋敷で廻船問屋との密会(もちろん屋号は越後屋である)。お代官様、甘いものはお好きですか?と問屋の主人が不敵に笑う。眉を持ち上げ含みのある笑いに気づくお代官様。うん?山吹色の菓子箱をスッと滑らす問屋。
 「越〜(以下略)」
 「いえい〜(以下略)」
 夜の庭で規則的に響くししおどしの音さえ既に不敵だ。

 そこまで考えてたら、では誰が屋根の裏でこの密会を聞いているのか、誰かいい忍者はいないものかと思い巡らす。和装ねぇと考えて玉木宏を思いついたが、ドーナツを食べてるだけでは成敗ができない。本木雅弘は河原でお茶を飲む始末。両人ともに昼の顔であった。

 この場にふさわしい忍者はいないものだろうか。
 


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それはよくない。
 いつの間にやらmixiが未成年も利用可能になっていた。
 敢えて言いたい。それはダメだ、と。mixiに限って言うことではないけれど、子どものネット利用すら諸手を挙げて賛成できない。
 マクルーハン(1911-1980)というメディア論の祖はテクノロジーやメディアは神経の拡張であると言った。たとえば車や電車は足の拡張とも言えるし、被服は皮膚の拡張で、ラジオは耳の拡張と言える。
 情報過剰が叫ばれる昨今にあって、学力低下がある。情報は肥大しているのに、その恩恵に与るどころか事態は逆に作用している。内田樹の「下流志向」に次のことが書いてあった。

 
意味がわからないテクストに囲まれて生きているのは、ふつうに考えればストレスフルな経験です。気になってしかたがない。そんなストレスをつねに抱えこんでいたのでは、生物としてのパフォーマンスが下がる。だから、選択肢は二つある。一つは、意味がわかるまで調べて、「無意味なもの」を「意味あるもの」のカテゴリーに回収する。もう一つは、「無意味なもの」があっても「気にしない」という心理規制を採用する。弱い動物はショックを受けると仮死状態になります。そのように心身の感度を下げることで、外界からのストレスをやり過ごすというのは生存戦略としては「あり」なんです。おそらく、現代の若者たちも「鈍感になるという戦略」を無意識的に採用しているのでしょう。それで学力低下という現象も部分的には説明がつくんじゃないかと思います。(『下流志向』P26)



 人の言うことを聞かないことと、ものを知らないことはもちろん同義ではない。文学の話をしても「あ、僕本に興味ないんで」とか、スポーツの話をふれば「サッカーよりも野球の方に興味あります」と言った返答は返ってくるかもしれない。実際に好きな分野に大してはものすごい知識を有しているのかもしれない。けれども言っている本人の興味が「仲間内では常識」の範囲を出なければそれはあまりにも虚しい。その「興味ない」が蔓延するのは生存戦略かもしれないけれども、その戦略の弊害はあまりにも大きい。未成年のうちから情報の渦に飛び込んではたして情報の取捨選択が、玉石混交の見分けがつくだろうか。つかないように思う。
 文学全集のような難しい本を手にとって読み、全くのちんぷんかんぷんという状態でネットに行くとする。そこに「意味がわかりませんでした。面白くない」と書き込む。簡単に追従を得られるだろうし、それに力を得て便乗して書き込む輩も少なからずいるはずだ。そうして思うのは「わからなくてもいい」という安易で心地いい答えだろう。
 幸いというべきなのか、僕の思春期にネット環境はまだ蔓延はしていなかった。そんななかで文学全集をとって読み、全くのちんぷんかんぷんだった。そこで思うのは「自分が悪いんだ」という自尊心がいくらか傷つく悔しい答えだった。
 長い時代を生き残ってきた本に対しての権威が作用したのだ。裸の王様を見て「王様は裸だ!」という子どもの時代をパスして、王様の服は見えないものかと刮目していた。ようは大人になりたかったのだ。
 学校で教わったことで今も残っているものなんてのは指で数えるくらいしかないけれど、ひとつだけ今でも役に立っているものがある。
 中学3年の頃、みんながわからなくて参っている問題があった。先生が「困ったときはチャンスです」と言って「続きわかる人?」と言ってみんなを見回した。そのとき友だちの坂詰くんが「頭のよくなるチャンスです」と応じた。
 おお、そうだな、その通りだな、と関心した。これはNHK教育の「かずとあそぼう」で使われていたフレーズらしい。「困ったときはチャンスです、頭の良くなるチャンスです」簡単なフレーズで覚えやすいけれども、実践するのは相当根気が必要だ。でも、今でもよく思い出しては実践に移している。
 学校で教わる知識なんて全て忘れてしまってもいいけれど、知恵だけは忘れてはいけない。教わらなくてはいけない。最低限、知恵の持った人がネットを利用するべきだと思うのだ。
 わからないことに出会ったら「興味がない。わからないままでいい」を通さないでほしい。マザー・テレサも「愛の反対は憎しみではありません、無関心です」と言っている。
 
 ここはひとつ、わからないことがあったら調べてみましょう。頭のよくなるチャンスですから。それが愛ってやつですよ。たぶんね。

進めなまけもの/斉藤和義

全てのなまけ人に捧げる歌。ほっといて、そっとして、だけどもっと褒めて。
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生活嫌いですか?
 昨日の深夜のNHK教育で、「ひとりと一匹たち多摩川河川敷の物語」という番組を見た。小西修さんという人は、多摩川河川敷に住まう猫を撮影する写真家なのだが、多摩川河川敷の猫と付き合うということはホームレス達とつきあうことと同じことらしい。多摩川河川敷のホームレスの数は900人あまりいて、捨て猫は彼らなしでは生きていけないのだとか。
中野翠さんのコラムに、たいへん考えさせられるエピソードが載っていたので紹介したいと思う。タイトルは「生活大嫌い病」長くなるが以下本文。

 (中略)私は、この夏、地下鉄千代田線の中で目撃した、ある小事件を思い出す。
 その日、私は日比谷駅から乗り込んだのだが、夕方のラッシュの時間帯だったので、座れずに立っていた。すぐに斜め前に座っている男が目についた。時間帯からして車内はサラリーマンとOLばかりだったのだが、その男は煮しめたような色のヨレヨレのポロシャツにヨレヨレのズボンで、明らかに貧しい肉体労働者風だったのだ。
 男は偉そうに脚なんか組んでいるのだが、私にはそれは居心地の悪さをごまかす虚勢に見えた。その男の隣には、禿げ上がった額のせいか、正確にはオタフクのりんかくになっている中年サラリーマンが座っていた。
 私は、ヨレヨレ男とオタフク男との間に険悪な無言劇が展開されていることに気がついた。ヨレヨレ男の靴がオタフク男のズボンに時どきかすかに触れるのだが、そのたびにオタフク男は、神経質にズボンをはたき、ヨレヨレ男をにらみつけるのだ。
 (中略)この攻防戦を眺めていたら、イキナリ、オタフク男がヨレヨレ男の足首をつかんで邪険に振り払ったのでビックリした。
 「何だよー!」―ヨレヨレ男が大声で叫んで立ち上がったので、車内は一気に緊迫した。それまで新聞を読んでいた人も、おしゃべりをしていた人も、みんないっせいにヨレヨレ男に注目した。「何だよー!」「そっちこそ、さっきからイイ気になって」。押し問答をしているうちに、ヨレヨレ男は車内の緊迫した空気にあおられてか、オタフク男の胸ぐらにつかみかかった。
 ほとんど、同時に、周囲のサラリーマンたちはいっせいにヨレヨレ男に飛びかかり、押さえ込んだ。そのすばやさは、あとで考えると感動的なほどだった。
 電車が霞ヶ関に着くやいなや、ヨレヨレ男はホームにつまみ出された。強引に乗り込もうとする男を、手で押しのけるネクタイ軍団。その背後でジーッと見つめる私たち。
 不思議なことに突然、ヨレヨレ男は気が抜けたかのように押し黙り、棒立ちになってしまった。
 ドアに立ちはだかるネクタイ軍団の目、そして車内の無数の目。拒絶の目―それが男の脚をすくませてしまったのだろう。
 プシューッという、聞き慣れた平和な音を立てて、ドアが閉まる。すべるように電車が走り出す。
 その瞬間、呪縛から解けたように、全身を振り絞って、男は叫んだ。
 「バカヤロー!」
 遠ざかっていくホームにポツンと立っている小柄な男の姿を、私は正視できなくなった。男の声が胸をしめつけた。』
 中野翠(生活大嫌い病)

 わたしたちは生活が大嫌いなのである。「お嬢さん、赤ちゃん、学生」「老人、ホームレス、肉体労働者」前者は生活臭がないためにもてはやされ、後者は生活臭がきつすぎるために排除される、というようなことを中野翠は続けている。
 確かにそういう一面はあると思う。もし、オタフク男VSヨレヨレ男ではなくて、お嬢さんVSヨレヨレ男という構図だったらもっとわかりやすく想像してもらえるかもしれない。
 きっとネクタイ軍団は下心も手伝って、駅のホームに排除するだけじゃなく一発くらい殴っていたかもしれない。でも、それってかなりおかしいことだ。
 中野翠の生活大嫌い病というコラム、中略しているけれどもその話の枕として若者のホームレス襲撃事件を使っているのだ。大人の責任のあずかるところは大いにあるし、そういう見方が変わらなければ襲撃事件が無くなるはずもないのだ。
 ホームレスこそ美しいだなんて言わないし、そう見る必要は全然ない。だけど、しらずしらずのうちに自身のうちに浸み込んでいるバイアスは取っ払う必要がある。
 ずっと前に何かの絵画の説明に「善美一体」という言葉を見たことがある。「美しい」イコール「善」という考え方。 
 偉そうな額縁に入った偉そうにしている絵の説明に添えられたいかめしい四字熟語が真実を言うと思ってはいけないのだ。これは僕なりのバイアスの取っ払い方なのだけれども、四字熟語や自分にとって難しい言葉に出会ったらぜひともヤンキー言葉に直してよんでほしい。「善美一体」は「きれいなもんってなにを言ってもなにをやってもオッケーだよな」だ。
 これはつまり、生活臭のしない四字熟語を生活臭ぷんぷんのヤンキー言葉への変換だけれども、こういう習慣がつけばいろんなものの見方も変わってくると思うので、ぜひ皆さんにおすすめしたい。それで得た見方なり考え方に寄りかかるのもまた危険だということもお忘れなく。人は白か黒ではなく、大体がグレーですから。

人生が二度あれば/井上陽水

生活臭ぷんぷんの曲をあなたに。
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なるほどね。
 かっこいいクルマが好きだ。男ですから。

 あのジョージ・クルーニーがHONNDAオデッセイのCMに起用されてからというもの、なかなか目の裏側に映像が張り付いて離れない日々が続いております。たじまです。
 もう車から降りるたびにビージーズのStayin' aliveが流れて止まらないのです。ガス・ステーション(ガソリンスタンドではなく)で降りるたび、パーキング(駐車場とは呼ばない)に停めるたび、気持ちはジョージ・クルーニーなのです。はぁー、もう、ああー、もう。このままでは買ってしまいそうだ、オデッセイ。
 しかし、どうしてか脳内でビージーズもジョージ・クルーニーも相変わらずかっこいいくせに、僕の方はと言えばちっとも変化がないような気がしてならない。うーん、なんでだ。オデッセイじゃないからか。
 つい先日、図書館から借りてきた谷川俊太郎質問箱という、ほぼ日刊イトイ新聞の企画本を読んだのだけれども、こんな質問に、谷川俊太郎氏はこう答えていた。
 
 質問54
 カゴから出ているのが
 フランスパンだとかっこいいのに
 長ネギだとそうじゃないのは
 どうしてでしょうか
 (ももんが57歳)
 
 答
 長ネギをリークと呼べば
 かっこよくなるんじゃないかなあ
 でもその場合
 カゴの種類やそれを持つ人の種類も
 問題になるのかも。
 どうしてと問う前に、
 いかにして長ネギを
 かっこよく持つかということを熟考するほうが
 建設的だと思う。

 なるほどね、と思った。いや、ちょっと待てよ、この「カゴ」に「クルマ」を「長ネギ」に「たじま」を「フランスパン」に「ジョージ・クルーニー」と入れるとなんだか答が出そうだぞ。

 質問54.5
 クルマから出ているのが
 ジョージ・クルーニーだとかっこいいのに
 たじまだとそうじゃないのは
 どうしてでしょうか
 (たじま24歳)

 答
 たじまをリークと呼べば
 かっこよくなるんじゃないかなあ
 でもその場合
 クルマの種類やそれを持つ人の種類も
 問題になるのかも。
 どうしてと問う前に、
 いかにしてたじまを
 かっこよく持つかということを熟考するほうが
 建設的だと思う。

 なるほど。要するにクルマじゃないんだ。
 問題は僕か。はぁーん、なるほど。
 あー、買わなくて良かった。オデッセイ。
 僕のことはリークと呼んでくれ。
 んじゃ。

Stayin' alive/Bee Gees

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