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文体練習
評価:
レーモン クノー
朝日出版社
¥ 3,568
(1996-11)
 レーモン・クノーの文体練習を読むことは、ほかの書物では味わえない不安感がつきまとう。物語りも作者も見えてこないからだ。物語らしいものは一応ある。混雑したバスの中で、首が長く、帽子をかぶった男性が、ほかの乗客にいちゃもんをつける。その男性は席があいたらそそくさと席に着く。そして、それを目撃していた第三者が、二時間後別の場所で、その帽子をかぶった男性を見かけ、友人らしい者から「コートの前が開きすぎてるからボタンをもうひとつつけるといい」とアドバイスを受けるところに出くわす、というものだ。面白いところなどどこにもない。
 それが延々一冊の本にまったく違う文体で書かれたらどうなるか?それを試みたのが本書である。
 たとえば「古典的」というとこうなる。
 昼は、バス。満員のころはさらなり、やうやう乗り込んだデッキぎは・・・
 たとえば「無関心」
 わたしになにをお聞きになりたいとおっしゃるんですか。ええ、正午頃S系統のバスに乗りましたよ。混雑していたかって?そりゃあもう、その時間ですからねぇ・・・
 たとえば「予言」
 正午になったら、きみはバスの後部デッキに乗り込むことになるだろう・・・
 このように本書は文体を変えつつ続くのだ。
 ひとつの事実を書いたものに過ぎないのに、味わいも、雰囲気もガラリと変わる。
 ストーリーは同じだが、BGMがまったく違う映画、素材は同じだが、味付けの異なる料理、対象は同じなのに描く人が違う絵画。そういうものを想像すればわかりやすいだろう。どれもこれもが、可能性という名の迷宮への入り口である。無限へのいざないは、不安がつきもの。本書の読後感に期待してはいけない。文章の可能性にのみ期待するのがいいだろう。
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