スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - |
好きになっちゃったんだもの。
 僕の友達に田沼くんという人がいて、これが面白いやつなんだ。 喋りがうまくて場を盛り上げられるし、なにより自分の考えを持っているのがいい。言葉にすれば簡単だし、一般論かもしれない「自分の考え」って、でも、持っている人ってほんとに少ないように感じる。そんな田沼くんから、非常に田沼くんらしいメールがきた。
 
 04/16 22:40  TITLE:おひさ。

まぁ、長文ですが、お付き合い下さいませ…。

王様の耳はロバの耳ってね。言わないと我慢できない事なんです。

はてさて、
前置きが長くなりましたが僕が何を言いたいのかと言いますと、ホットな話題ですが、「村上春樹が好きだ」と言う方について…

大抵こうおっしゃる方にね、「何処が好きか」って尋ねると「独特の世界観が〜」「雰囲気が〜」って言うのよね。

そう言われるとにやけちゃうわけですよ。。

「あ〜、つまり何も解んなかったわけだ!!」ってね(笑)

うんうん、もう君はアレだ。「村上春樹が好き」改め「村上春樹が好きな自分が好き」だ。

休日にスタバでiPhoneいじって村上春樹読んじゃうんだねっ!?ってね!!

感銘受けた本がジョブスの自伝で好きな作家は村上春樹だね!?アイシーアイシー。

………あー、公でゲロったら炎上必至だね☆

低脳乙wwwwとかいわれんだろな〜。で、じゃあ何処がいいか教えてって言ったらお前じゃ言っても解んない……的な??

いやぁ、楽しかった(笑)

あ、なんかゴメンね(´∀`)
 22時過ぎに、この長文メールをひとり携帯に向かって打っている田沼くんもいじらしくてなんかいいと思います。でも、それを村上春樹好きだと言っている自分に送ってくるあたりなかなかできないことだ。人徳かな?ありがたや。返事は翌日、通勤電車で座れないという憂き目にあっていた朝に返した。

 04/17 07:47  TITLE:Re:おひさ。
 
休日にスタバでiPhoneいじりながら村上春樹云々はさておき、気持ちはよくわかるよ。
本を読んでなかった昔は、何かにつけ「本を読め」 って言う人に腹が立つ思いがあったなあ。だからとりあえず本100冊読んでから文句言う資格を持って
本を読んだって意味ない」って言いたかったのを思い出した。

読書の意味はあんまりないと思うけど、一人でいることに慣れるツールであるかもしれないし、想像力を持てるようになるだろうね。

想像力を養えば、少し難しい具体的な問題も抽象化して、置き換えることができる。

例えば田沼が大好きなお笑い芸人で、人気があるんだけど、その良さがさっぱりわからないって人がいるとする。その笑いを「どこがどう面白いの?」って人に聞かれたら、そう聞いてくる時点でもうお手上げだって思わない?面白さに説明がつくことが、実際の面白さとは何も関係がないのがわかるでしょう。

これは皮肉じゃなく、村上春樹の言葉だけど「説明しなくちゃわからないということは、いくら説明してもわからないということだ」ってのがあったよ。村上春樹嫌いって言うことは、何かよくわかんないけど人気らしいから読むってだけの人よりも数倍カッコイイ発言だから公でゲロってよし!
 というわけで、変わりに載せてみた。
 
 それから5月8日、また田沼くんから村上春樹関連のメールがきたわけなんだけど、それはAmazonのレビューにひどい奴がいる、というものだった。友達になりたいくらい、とのこと。それは気になるなぁ、と読んでみた。(さすがに他の人のレビューのリンクは貼るつもりはないので、気になるかたは検索してください。タイトルは『孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説』)
 レビューのタイトルでおわかりのとおり、辛辣な評だった。その評の軸足は、リアルじゃないといった感じのもの(おしゃれすぎる、それでモテるって詐欺だろetc…)で、友人に喋るような口調で書いてある。読んだ方はわかると思うけど、それは芸のレベルに達している。
 
筋をずらずらと書いてしまう書評って困ったものですね。とくに結末まで書いてしまうというのは問題がありあます。(中略)一般論で言って、書評というのは人々の食欲をそそるものであるべきだと、僕は思うんです。たとえそれが否定的なものであったとしても、「ここまでひどく言われるのならどんなものだかちょっと読んでみよう」くらい思わせるものであってほしい。それが書評家の芸ではないでしょうか。
 
 『少年カフカ』/村上春樹
 皮肉(?)なことに、レヴューに対しての感想にも「逆に読みたくなってきた」というコメントがある。そして、批判するためであっても、『多崎つくる〜』からの引用をふんだんに使って説得力を増しているから、それなりの時間をかけてこの作品を読んでいるのがわかる。
 村上春樹からの引用ばかりで恐縮だけれど、『たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ』という台詞がねじまき鳥クロニクルにあることを思い出した。僕はたっぷりと時間をかけ、100冊以上の本を読んで文句を言う資格が欲しかったし、このレビュアーもまた、時間をかけてその復讐をしている。それは洗練されている。少なくとも誰かの意見の切り貼りではなく、そのひとの頭で考えられた言葉だから。

 その人の書評を読んで、そうだよなーそうだよなー、とうなずきながらも「だから嫌い」にはならない自分がいる。
 とにかく好きになっちゃったんだもの。それは理屈を超えているから。恋と同じで。
 そのくわしいところは前回の記事に書きました。




イッサイガッサイ/KREVA
好きになっちゃったんだもの。
| 村上春樹 | comments(2) | trackbacks(0) |
アイロンのある風景
 3月11日の震災をニュースで見るにつけ、衝撃の連続で感覚が鈍磨している。
 先週までは何を言っても何をしても不謹慎と思えるような風潮があったように思う。実際普段なら看過されるような個人の発言に対しても揚げ足取りとも思える辛辣さではじかれる様を見た。(今でも原子力の専門家と呼ばれる人はたびたびニュースに召喚され、答えにくい質問に窮する画をカメラがとりまくっている)
 一方で、どれだけ自分が倫理的な発言をできるかで変な競争意識のようなものが蔓延している。募金の呼びかけ、ボランティアの参加。先週までコンビニに札が入っているのが普通に見えたが今日はなかった。これからゆるやかにもっと減るのではないだろうか・・・。

 対岸の火事を眺めるようにしか目に映らなくても、そこに生きて生活している人がいるのには変わりはない。ニュースで見た一番衝撃的だった映像は津波で家が流される様子でも、死者行方不明者の数でもなく、母親を失った女の子が「お母さん」と家があったであろう方角に向って泣きながら叫んでいる映像だった。

 ひとつ紹介したい小説がある。題は「アイロンのある風景」
 村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」という短編小説は、阪神淡路大震災の後それをテーマに上梓された作品で、その中に納められているのがこの『アイロンのある風景』だ。

作品自体が短く、登場人物も三宅さん、順子、啓介の3人だけ。順子と啓介は同棲していて、三宅さんは順子の働くコンビニの常連。三宅さんは画家でちょっと変わった趣味を持つ。浜辺での『焚き火』がそれだ。三宅さんと順子はやがて親しく口をきくようになり、焚き火をするときには順子にも声をかけるようになる。しぶしぶ啓介も付いていく。
「先月の地震」のことを尋ねる啓介に、「さあ、ようわからん。俺な、あっちとはもう関係ないねん、昔のことや」と応える三宅さん。

以下順子と三宅さんのやりとり。

「三宅さんって、どんな絵を描いているの?」
「それを説明するのはすごくむずかしい」
 順子は質問を変えた。「じゃあ、いちばん最近はどんな絵を描いたの?」
「『アイロンのある風景』、三日前に描き終えた。部屋の中にアイロンが置いてある。それだけの絵や」
「それがどうして説明するのがむずかしいの?」
「それが実はアイロンではないからや」
 順子は男の顔を見上げた。「アイロンがアイロンじゃない、ということ?」
「そのとおり」
「つまり、それは何かの身代わりなのね?」
「たぶんな」
「そしてそれは何かを身代わりにしてしか描けないことなのね?」
 三宅さんは黙ってうなずいた。
(『アイロンのある風景』より)

 服のシワを伸ばすアイロンは今の被災者たちにとって早急に必要なものではないと思うが、そういう衣食住の次にある豊かさを当り前のように享受していた日々から隔絶されてしまった人たちが今現実にいる。
三宅さんが絵に託しているのはその当たり前だったはずの生活の残滓なのだろう。
この『アイロンのある風景』は次の会話で締めくくられる。

「焚き火が消えたら起してくれる?」
「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」
(『アイロンのある風景』より)

ニュースから映像が届かなくなっても生き残った人は生きなくちゃいけない。
いやでも生活は続いていく。
そんな生きていくことの残酷さがでている台詞だ。

| 村上春樹 | comments(0) | trackbacks(0) |