スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - |
荒野のおおかみ
 あるとき本屋で「この漫画面白いよ!山下って小説結構読むじゃん?その山下も面白いって言ってたんだってば」という台詞を耳にした。ずいぶん考えなしな発言だと思われるかもしれないけれど、実際小説を読むと言うと、一目置かれたり、あるいは関心されたりするのは確かかもしれない。
 純粋に小説という読み物を好きになったわけではない僕は、そういう気持ちがよくわかる。小説を読めるようになるまでの苦労があり、成長とか、かっこいい大人像への漠然とした憧れが原動力になっていた。しかし、得るものは他人との共有が難しく、孤独を強めこそすれ社交性を豊かにするという面に関しては疑問が残る。え?読んでる本が悪いのか?
 今日紹介したい本はヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』という本。この本は、ブログで知り合った「ヘルミーネ」さんの紹介。というよりも、ヘルミーネというハンドルネームは、この小説の登場人物からとっているということで、気になっていたのだ。正直な感想を先に述べると車輪の下よりもこちらの方がだんぜん好きだ。
 ごく簡単にあらすじを言うと、教養で死に絶えそうになっていた老人(ハリー・ハラー)が、ヘルミーネという女性を通して、子どもらしい表面の遊戯に身をささげ成長を試みる話なのだ。
 教養で死に絶えそうになるとはどういうことか、ピンとこないかもしれない。この主人公のハリー・ハラーは、若いころから独立心が恐ろしく強い男で、パンを食べるために働くなら甘んじて空腹をしのんだし、兵役さえ脱する、自由を保持するためならなんでもしたという男なのだ。それは強みであり美徳かもしれないが、あるときハリーは自由を手にしたただ中に立ってみて、自分は孤立していることを、世間が彼をほったらかしにして、誰とも関係を結べなくなっていることを悟り、愕然と立ちすくむのである。ハリーの方で折れ、兜を脱いで関係を結ぼうと思っても捨て置かれる始末である。会話はできても通じ合うという感覚がまったくないのだ。市民的な享楽に憧れながらも蔑む態度を隠せないハリーは、どこに身を置いてもストレンジャー、あるいはアウトサイダーなのだ。
 たとえば自分の好きなもので考えてもらえるとわかりやすいかと思う。もしあなたが映画が大好きで、相手に「今まで見た映画の中で一番面白かった映画ってなに?」という質問をしたとして「ロッキー」だなんて答えが返ってきたらガックリこないだろうか。もちろんロッキーが悪い映画だという意味ではなく、真の映画好きならその矜持が「ロッキー」という返答を許さないだろうという、こちら側の勝手な要求にすぎないのだが。
 このハリーもまた、モーツァルトやバッハ、ゲーテなどの古典に精通している人で、その教養を他人と共有したいと求めながらも半ば諦めていて、こちらが歩み寄るために、内心くだらないと思いながらも流行の音楽や思想に、触れては離れを繰り返す。憧れながらも蔑むとはつまりこういう惨めな有様だ。
 そんな絶望を抱きながら立ち寄った飲み屋でハリーはヘルミーネと出会う。

 「自分でももうわからないんです。僕は研究をし、音楽をやり、本を読み、本を書き、旅行をしました−」
 「あんたは人生について妙な考えを持っているのね!いつも難しい複雑なことをやってきたくせに、簡単なことは全然習わなかったの?時間も興味もなかったの?まあどうでもいいわ、ありがたいことに、私はあんたのおかあさんじゃない。でも、人生を思う存分ためしてみたが、何も見つからなかったとでもいうようなふりをなさるのは、いけないわ!」
 「しからないでください!」と私は頼んだ。「僕は気が狂ってることは、もう承知しているんです」
 「何をおっしゃるの、よまよいごとはよしてよ!あんたはちっとも気が狂ってなんぞいないわ、教授さん、それどころか、私から見れば、あんたは気が狂っていなすぎるんだわ!あんたはばかげた流儀で賢いんだ、と思うわ、まったく教授らしくね。さあ、もうひとつパンを食べて!そのあとで話の続きをして」
 これより先、ハリーはヘルミーネの手ほどきを受けながら、ダンスを習い、市民的な享楽に身をささげるようになる。大人になってから子どもらしさを取り戻すという勉強を始める。
 小さい頃は、学校でうるさくしたり大声をだしたりすると、叱られるものだ。単に御しやすいためか「大人しい」という性質が教師に好まれ、子どもの世界ではアドバンテージにもなりえる。けれども、社会でイニシアチブを持って働く人の中で「大人しい」大人は誰もいやしない。「大人しい」とは大人になってからは不利な性質でしかないというのは世界共通なのだなと、この本を読んでいてかなり驚いた箇所だった。ハリーはヘルミーネにとって大人しい子どもでしかなかった。正しい狂いと処世術をヘルミーネが教えてくれる。幸福で満たされたハリーだが、彼の孤独は強かった。

 「そうだと信じているんだ!僕は自分の幸福に大いに満足している。まだ相当長いあいだ耐えられる。だが、この幸福が、目をさまさせ、あこがれを持たせる時間を、一時間でも僕に与えてくれるようなことがあると、僕のあこがれは、この幸福をいつまでも保持することをめざしはしないで、ふたたび悩むことを、ただもっと美しく、以前のようにみじめでなく悩むことをめざすのだ。死ぬ用意をさせ、喜んで死なせるような悩みに、僕はあこがれるのだ」

 ずいぶん前にえみさんと「なんのために本を読むのか」という話になったことがあり、「救いのためかなぁ」とえみさんが言っていたことをふいに思い出した。僕もまた、そういうところがあるなあと同意した。実際、池澤夏樹の「スティル・ライフ」に救われたという思いは強いし、穂村弘の「硝子人間のころ」という小さなエッセイもそうだった。ただ、悩みを拾ってくるのも本からが多い。ハリーのこの言葉を読んだとき、「悩むためかな」とも思うのだ。本の中での小さなこのループは、いったい本当に現実に通じているのかと、今日もまた悩みのたねを本から拾い上げた。
 ハリーは自分だと思った。

 仮装舞踏会だ!ヘルミーネよ!
 
 
| ヘルマン・ヘッセ | comments(9) | trackbacks(0) |