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非属の才能 若者はなぜ「決められない」か
2009.08.06 Thursday
いい本を読んだのでこれは紹介せねば、ということで久しぶりに本の紹介をさせてもらいます。
山田玲司の『非属の才能』という本と、長山靖生の『若者はなぜ「決められない」か』のどちらも新書。 まず、非属の才能という新書はshinkaoさんというブログ仲間のおすすめで手に取り読んだ本で、ページを捲るとまずこう載っている。 ・「空気が読めない奴」と言われたことのあるあなたこれを開いたとき、「おお、これは」と素直に思った。僕のことだ、と。自分の考えもあまり持ち合わせていない小さいときから集団に少し距離を置いていた僕は、地区の遠足でディズニーランドに行くときは仮病を使ってまで休んだし、皆が一様にいいと言うジブリ映画も大学に入るまで1度も目にしたことがなかった。考えあっての行動、というよりも「何か恐い」という感情がまずあったと思う。(なにせ小学生だったし) 大学に入ってからもそんな行動の奇異さに磨きをかけ、奈良へ行ってもとことん観光スポットを避け、鹿を意識的に黙殺していたし、電車に乗って隅の席が空いていても意識的に真ん中に腰掛けてみたりと、現実にある見えない「圧」のようなものに対抗意識を発揮していた。 なぜなのかそれはわからない。天邪鬼と言えばそうなのだけれども、そこから離れてしか見ることも感じることもできないものがあるはずだ、という無意識に近い、それでも信念と言ってさしつかえないほどの強さをもって対抗していた。思えばそれは無駄に力がいる疲れる生き方なのかもしれないのだが。 本書を簡単に説明すると「はみだし者」の成功裏話の総まとめといったものだ。そして普通に生きることのつまらなさと、利潤の低さを同時に併記している。 学校にひとりも友人がいなかったという爆笑問題の大田光に大槻ケンヂ、そして「高校三年間で五分しかしゃべらなかった」というお笑い芸人のほっしゃん。 日本人は、どんな場面でも空気を読む、協調性を持つことが一番優先されるような教育を受けているのだが、内実は「協調」ではなく「同調」だと言う。「みんながそう言っている」に逆らおうものなら奇人変人扱いを受ける、とまでは言わないまでも仲間ができにくいし、いじめられる可能性も上がる。そんな中で同調圧力が強い学生時代にまわりに合わせることを覚えた人間は、『その気楽さゆえに、いつも行列のうしろに並んでいる自分の人生に疑いを持たなくなってしまう』のだと言う。 心理学のテストで有名な例がある。映画館で「火事だ!」と言う人がいるとする。被験者が一人の場合、彼はその言葉に従って逃げるのだけれども、映画館にサクラとして数人を用意し、火事だ、と言われても動かないようにすると、被験者である人も映画館から出てこないというのだ。 「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、それは自分の頭で考えることのできる人間が集まったときの話で、「三人寄れば場の空気」といったことのほうが多いのが現実だ。と、かなり「普通」に対して辛らつな文章が見られる。中でも一番目を引くのは"怠けている人ほど真面目に見える"という考え方で、フリーターやニートに対してバッシングを行う側の人たちの方こそが思考停止になっている怠け者、というのだからすごい。 世間に対して違和感を感じて引きこもった側にこそ非属の才能を開花させるチャンスがあり、「自分で考える」という普通より厳しい道を選んだと言うのだ。(それはちょっと違う、と言いたいけれどもまぁここでは敢えて言及しません) 非属の才能を開花させて成功した人たちの紹介に溢れる本書。僕はその部分ではかなり面白く読めました。「グーグルの入社試験」「自分の会社をクビになったiPodの生みの親」「長嶋茂雄より成績のいい選手はいくらでもいた」の章は拾い読みだけでもしてもらいたい。なんにせよ元気をくれる読み物だと思う。 とりあえず"非属の才能"の紹介はここまで。 本を読むというのはそれだけで「思考している」つもりにもさせてくれる代物だから注意もまた必要だと思う。アーサー・ヘルプスの言葉にも「読書は、しばしば、考えることを回避するための巧妙な手段である」という言葉があるように、アジテーション(煽動)されるだけでは読書の価値も低いものになるし、この"非属の才能"を読んで行動指針にするのは自由だけれども「自分で考えてから」の括弧つきでやらないことにはなんら意味は持たない。山田玲司氏にとってもそれが本懐だろうと思う。 何が気になると言うと極端な異端礼賛だ。たとえば「スープの出来具合によって休んでしまう店」とか「食べ方にまで注文をつける店」がたびたびマスメディアでも評判になるが、これを山田氏に言わせれば"非属の才能"と言うことになるだろう。しかしそれも常套手段となった時、つまり非属だったものが属になったとき(つまり現代)、そこに魅力を感じるのも困難なのだ。実際僕は感じられなくなった。(過去形です) また、成功者の言葉、普通の人の愚痴という陰陽の対比で本書を進めているけれども、チャレンジしたがドロップアウトした人という言葉を拾い上げるまでには至っていない点にも不満はある。 僕にとってそれを補うような本が長山靖生の『若者はなぜ「決められない」か』だった。(おいおい、今日長いな、みんな読んでるかなここまで、というか終わるのか) こちらでは成功者の声は拾い上げない。ニートでもなく、正社員として働いているわけではないどっちつかずのフリーターにフォーカスした本だ。 本書は、単純なフリーター批判の書ではない。またフリーター肯定の本でもない。批判されても、ある人々はフリーターを目指すだろう。それで成功する人もいれば、失敗する人もいるだろう。極めてニュートラルな立場で論じるので、冷静に頭を冷やして考えるのにうってつけだ。あんまりフリーターには触れないで紹介するけれども、"非属の才能"に繋がる部分があるのでそこを抜き出したい。 現在、われわれが天職というとき、それが他者のために選ぶ職、他人に奉仕する職という意識は希薄である。天職はあくまで、自分自身のためであると感じている。だが、「自分が自分の生き甲斐としてやることに、他人が金を出してくれる」というのは、かなり虫のいい話ではあるまいか。これほど消費者を無視し、馬鹿にした態度もない。ここで"非属の才能"で感じていた違和感が指摘されたように思う。そうなのだ、超然としていて孤高でいられる仕事が今「かっこいい仕事」とされているきらいがあるように思う。ではなぜ、媚びない態度が立派な仕事と思うようになったのか。 それはもう買って読んでください。書くのに疲れたので。読むのも疲れたことでしょう。 ながい文章読んでくれてどうもありがとう。バイバーイ。
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